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実際は「冤罪」だった水野信元の処刑

史記から読む徳川家康㉓

 同月中には家康の嫡男・信康と信長の娘である五徳との間に、長女・登久姫(とくひめ/のちの峯高院)が誕生した。

 

 同年518日、信長と対立していた本願寺と上杉謙信(うえすぎけんしん)が和睦。上杉と織田との同盟関係が決裂した。足利義昭(あしかがよしあき)の斡旋(あっせん)があったらしい。7月には長篠城(愛知県新城市)の奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が新城城(愛知県新城市)を築城(「新城聞書」)。これを機に、家康はかねての約束通り、自身の娘である亀姫(かめひめ)を信昌に嫁がせている(『三河物語』『寛政重修諸家譜』)。

 

 同年8月、家康は犬居城(静岡県浜松市)から敗走する天野景貫(あまのかげつら/または藤秀)を追撃して駿河まで入ったものの、勝頼が駿河に出陣したとの報を受けて撤退した(『当代記』『浜松御在城記』)。

 

 翌1577(天正5)年122日、勝頼は北条氏政(ほうじょううじまさ)の妹と結婚(『甲乱記』)。北条氏との同盟強化のための政略結婚だった。

 

 同年5月には信康と五徳の間に二女の熊姫(ゆうひめ/のちの妙高院)が生まれる。『三河後風土記』によれば、当初は順調だった家康の正室・築山殿(つきやまどの)と五徳との間が不仲になったのは、この頃からだったという。

 

 つまり、五徳が二度にわたって男児ではなく女児を生んだことを指して、築山殿が「女子ばかりでは何の甲斐もない」と指摘。これを受けた信康は「これよりして、宮仕えの女房、御寵愛蒙(こうむ)るたぐいもあまたできぬ」という有様だったという。

 

 さらに同書には、体調を崩しがちだった築山殿が減敬(めっけい)という唐からやってきた医者を重用し、「常に閨(ねや)の中にとめおき給い、花鳥の色にも音にも飽かず睦み語らわせ給うさまは、古えの道鏡のためしも引き出すべし」と記されている。築山殿は減敬を通して武田氏と連絡を取っていたという。

 

 なお、これら築山殿にまつわる悪女伝説は俗説にすぎず、多くが後世の創作といわれている。

 

 同年閏(うるう)7月、家康が高天神城(たかてんじんじょう/静岡県掛川市)の攻略に動いたとの知らせを受け、勝頼は出陣(「武田勝頼書状」)。10月には勝頼が遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)への侵攻を開始。馬伏塚(まむしづか/静岡県袋井市)で家康と対峙する。しかし、両軍は全面対決を避けた。同月20日、勝頼は駿河へと退却。同月21日に信康は岡崎城に、同月22日に家康は浜松城に帰陣した(『家忠日記』)。

 

 翌1578(天正6)年313日には上杉謙信が急死。上杉家はまもなく、後継者争いの「御館(おたて)の乱」によって混乱を迎える(『歴代古案』)。相模(現在の神奈川県)の北条氏は事態を収拾するため後継者争いに介入したが、勝頼が北条氏の意に沿わない態度を示したため、北条と武田の関係は急速に悪化。北条氏は勝頼と対立する織田・徳川に接近することとなる。

 

 同年73日頃から、家康は高天神城攻略の拠点とすべく横須賀城(静岡県掛川市)の普請を開始(『家忠日記』『遠州高天神軍記』)。同年821日には信康とともに小山城(静岡県吉田町)を攻めかかっている(『家忠日記』)。

 

 同年9月、家康は織田家家臣の九鬼嘉隆(くきよしたか)に「武田軍の敗北は間近だ」と伝えている(「九鬼文書」)。そして11月に勝頼は、高天神城を拠点として横須賀城を攻撃(『家忠日記』)。武田軍にとって高天神城は遠江における重要拠点であり、一方、対抗する家康にとっても是が非でも手中にしておかなければならない要所だった。

 

 こうして一進一退を続ける両軍の領土争いのさなかに起こった出来事が、築山殿と信康による〝事件〟だった。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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